Isuzu Bellet 1963-1973 (PR##)

1600GT-R(PR91W 1969-1971)フジミ1/24 New

HISTORY

いすゞ自動車は1963年10月に開催された全日本自動車ショー(東京モーターショーの前身)にて、、ベレルに次ぐ完全自社開発車両であり、それまでライセンス生産していたルーツ・モータ社のヒルマンに変わるいすゞの1.5リッター小型4ドアセダン、べレットを発表する。
このクラスは既にコロナとブルーバードが激戦を繰り広げており、その市場に参入すること、そして販売主力車種としての重責を担っていた。

もちろん、生半可な車両では、到底太刀打ちできない。その為、先の2車種には無いセールスポイントと、個性を与えられている。それは、先進的なメカニズムと、スポーティーイメージ、そして何よりオーナードライバーをターゲットとしていた事である。

このクラスでは初となる4輪独立懸架、特にリヤサスペンションにはダイアゴナルサスペンションと言う凝った形式を標準として、ラック&ピニオン式ステアリングギア、コラムシフトとベンチシートだけでなく、当時としてはスポーツカーだけの装備で珍しかったフロアシフトとセパレートシート、そして、パーキングブレーキもサイドブレーキ方式とステッキ式(キャブオーバートラックによくあるインパネ下部に有るレバー)を用意して、その組み合わせを受注時に自由に選択可能にするなど(コラムシフトとセパレートシートの選択も出来た。 最も、その逆を選んだ人はいなかったでしょうが・・・)スポーツマインド溢れる一方でいすゞのお家芸でも有る1.8リッターディーゼルエンジン搭載車も用意して、ユーザーの多様なニーズに合わせた商品展開がなされ、好評を持って迎えられた。

翌1964年4月、先の自動車ショーでセダンと同時に発表され、日本で始めてGT(当時は1500GT)の名称を与えられた2ドアクーペモデルが華々しくデビューする。エンジンを従来の1.5リッター(1471cc)G150型の排気量を1.6リッター(1599cc)まで引き上げ、SUツインキャブレターを装備したG160型を搭載、実質的なイメージリーダーとなる車種である。(1966年に改良され、G161型となり、排気量は1584cc、弁機構も1969年でOHVからOHCに変更されている。)

そして、半年後の10月、大幅なラインナップの拡大の為に大々的な車種追加がなされる。まず、それまで4ドアのみだったセダンに2ドアが追加され、セダンのスタンダードモデルのエンジンが1300に変更とともにヘッドライトも4灯式から2灯式になり、2ドアのバンがエキスプレスの名称で登場。このモデルのみ、リアサスペンションがリーフ/リジッド式となる。そして、GTのボディに1.5リッターエンジンを搭載したSUツインキャブの1500GTとシングルキャブ、シングル出しマフラーの1500クーペが登場(但し65年には再びクーペは1600GTのみとなる)。ここからベレットは順次、車種編成を入れ替えて、商品力をアップしていく事になる。

1965年、フロントグリルの手直しと共に16004ドアデラックスにボルグワーナー社製オートマチックトランスミション車が追加され、イージードライブが可能になる。

1966年11月には、セダンに1500のSUツインキャブレターエンジン搭載のスポーツ(1968年7月に1600に移行、1971年後半まで販売)と、変形2灯式ヘッドライトが与えられコンベンショナルなリーフ/リジット式リヤサスペンションとコラムシフトのBタイプ(1969年春まで販売)が登場。スポーツドライブを好むユーザーはもちろんの事、保守的なファミリー層と、法人需要向けにリリースされた車両で手堅い手法をとる一方、翌月12月には1600GTのルーフセクションを改修したファストバック(1970年半ばまで販売)をセミハンドメイド方式でリリースするなど、幅広い車種展開を行っている。

ベレットシリーズはいすゞの屋台骨を担うシリーズであったが、同時にモータースポーツへの主力戦力でもあった。
特にダイアゴナル式のサスペンションは姿勢変化によるアライメントの変化が激しく、車体の挙動変化も激しい為、くせの有る操縦性であるものの、その特性は旋回性能の面では上手く操れば逆に武器にもなる。その為、レースやジムカーナ等で活躍し、1.6リッタークラスでは常勝、また、国内のみならず海外でも活躍してたと言う。

そして、1969年、プロトタイプクラスでレースに参戦し続け、9月の鈴鹿12時間耐久レースにて総合優勝した一台のベレット、GTXと名乗るそのクルマは、ボディパネルにアルミを多用して軽量化と共にリアフェンダーにデフオイルクーラーのインテークを設け、リアタイヤハウスを大きくたたき出したそのマシンには、68年に登場した117クーペのツインカムユニットG161W型が搭載されていた。
117クーペが登場した時から、そのパワーユニットがベレットに移植される事を待ち望んでいたファンが多く、また、いすゞも、レース活動はあくまでも車両開発の一環としての参戦であった。のですが、当初、メーカー(の首脳陣)としては、G161W型をベレットに搭載する計画そのものが無く、また、このクルマの製作、及びエントリーはISCC−いすゞ・スポーツカー・クラブ−であり、プロトタイプクラスで有れば、搭載エンジンに制限が無い事からGTXが作られた、のだそうです。

最も、好成績を上げればメーカーサイドとしても市販化の計画を立ててくれるのでは、と言う願いが込められていたのは間違いないでしょう。(そして、その願いは叶うわけなんですが)

鈴鹿12時間耐久レースでの総合優勝の興奮が覚めやらぬ翌10月、シリーズのマイナーチェンジとともにGTXは市販に移される。レーシングの頭文字"R"の称号を携えて。そう、GT−Rが満を持して、市販に移されたのである。

Rと言う特別な称号を与えられるだけあって、ラジアルタイヤ、外観も専用の左右分割バンパーと、専用の大型フォグランプ、内装も専用のハイバックシートや革巻きステアリングとウッドシフトノブを標準装備して、注文装備として専用ストライプ付きブラックアウトボンネットが用意された。

1970年には117クーペにも搭載されている1.8リッターG181型エンジンを搭載する1800GTが登場、そして、その翌年1971年、マイナーチェンジと共に大幅な車種削減がなされ、4ドア1600スペシャル、18002ドアスポーツ、1600GT-Rと1800GT、その廉価版でシングルキャブ1800GT-Nの5車種に整理され、1973年9月、静かにベレットの生産は終了、その座はその一年後の1974年10月、業務提携したGMとの共同開発によるグローバルカー『ベレット・ジェミニ』に託される事となった。

 いすゞとして初となる小型乗用車ベレット。このクルマが現役だった10年と言う時間は日本の自動車史にとって、発展の歴史であると共に、今日に至るマーケティングの激動が始まり出した時期。
 他のメーカーがあれよあれよとモデルチェンジする中で、地道に改良をくわえ、独自の道を突き進んできたわけですが、その一方であれこれとグレードを追加しては消えを繰り返し、このクルマも、マーケティングに翻弄されることを免れなかったのでは・・・
 そして、結果としていすゞは乗用車部門から撤退し、今日にいたるわけですが、今の他のメーカーのクルマを見ても、どれもこれも似たようなのばかりで上辺だけで中身の無く、その時々のトレンドやマーケティングに縋っているだけとしか思えないこの現状、撤退は苦渋の選択だったものの、別の視点で捕らえれば、止むを得ない、賢明な判断だったのでは・・・
 ただ一ついえることは、いすゞのように地道な苦労を重ねる良心的なクルマ作りは今の日本のマーケットの嗜好とは合致しないと言う事。
ベレットの歴史を紐解いていくとそう思えてなりません。

参考文献

『ノスタルジック・ヒーロー』Vol.20”名門いすゞの復活”鈴木弘孝氏レポート
1990年8月号 芸文社刊

『ノスタルジック・ヒーロー』Vol.40”史上に残る名車たち−ベレットGT−R−”石川真禧照氏レポート
1993年12月号 芸文社刊

『オールドタイマー』Vol.17”歴代ベレット「小鈴ちゃん」”沼田 亨氏、浦栃 重雄氏レポート
1994年8月号 八重洲出版刊

『絶版自動車 日本の名車』ベレット15002ドアDX、ベレット1600GT−R
成美堂出版刊

本文作成の際、以上の文を参考にさせて頂くと共にデータ等、引用させて頂きました。 

(掲載日2004年12月19日)

 

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