Lancia Delta HF Series(1986−1994)

・DELTA HF4WD ハセガワ 1/24改造

・DELTA HF Integrale Evortione2 ハセガワ 1/24改造(準備中)

History of Lancia Delta

ランチャ・デルタがデビューしたのは'79年、フルビアの生産を終了して4年後の事だった。
当時既にフィアットグループ傘下であったランチャは、販売不振で、且つラインナップに小型乗用車がなかった。その起死回生のために開発され、市場に送り出されたのがデルタだった。

 

イタル・デサインによる5ドア・ハッチバックは、ジアコーサ方式横置きFFでエンジンは、フィアット・リトモと共用する1.3L、1.5L、のSOHC4気筒が用意されていた。
ランチャ・ブランドにふさわしい高級感と、クオリティを誇るデルタは、好評を博し、'80年ヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞、もちろん、ランチャにとって、救世主となったのは言うまでもなく、スポーツ・バージョンの登場も期待され、'82年9月デルタ・ターボ4X4が、発表される。ベータ用1.6リッターDOHCにギャレット製ターボを組み合わせ、トルク・スプリット(駆動配分58:42)センターデフ式フルタイム4WDのシャシーをもつこの車は、あえて、市販には移されなかった。先行開発車としてテストに用いられそのデータが、後のスポーツモデルに、逐一フィード・バックされる事になる。

 

翌月、その第1段、1600GTが、カタログ・モデルとして登場、105PS,13.8kg-mのベータ用(デルタ・ターボ4X4のベース・ユニット)1.6リッターDOHCエンジンと、4輪ディスク・ブレーキが与えられ、最高速度180km/hをマークする。
'83年第2段、ターボ4X4で、開発されていたエンジンが、満を持して搭載された。
それも、デルタとして初めて、HFの称号が与えられて・・・。その名は、HFターボ。
"HF"(Hi-Fedelity忠実度の高い)とは、フルビアHFクーペを、皮切りに、歴代のランチャの高性能車に与えられた称号で、ランチャを駆るプライベーターチーム(後にワークスチームとして活躍する)"HFスクアドラ・コルセ"に端を発する。ギャレットT3タービンと空冷インタークーラーにより、130PS,19.5kg-mを発揮、圧縮比を高め(8.0:1)低回転域からトルクのあるセッティングになっていた。

 

そして、マイナーチェンジされた'86年4月,パリサロンにて、デルタシリーズのマイナーチェンジと共に、真打ちともいえる最終追加の最強バージョンHF4WDが、デビュー、市販される。
テーマ用2リッターDOHCにインタークーラー・ターボを組み合わせ、165ps、26.0kg-m(フル・スロットル時のみオーバーブーストが掛かり29.0kg−mに跳ね上がる。)を発揮、ビスカス式センター・デフ(駆動配分56:44)と、ゼクセル―クレゾン社が開発し、当社のパテントである、トルセン式リヤ・リミテッドスリップデフを組み合わせている。

 

ちょっと待て。最終?最強?どういうこと?それじゃあ・・・と、貴方が何を言いたいかはわかります。でもそれは、運命のいたずらによって書き加えられた予想外のシナリオ。本来、当初の予定では、これ以降の車種追加はもとより、この車で(ワークス体制で)ラリーフィールドで戦うことすら、最初から考えてはいなかったと言われており、なにより出る幕すらなかった。

 

少なくともHF4WDが登場した、そのときは・・・。

 

全ては,運命のいたずらによる物だった・・・。(それも、あまりにも、皮肉なものになるのだが・・・。)

 

実はデルタ・シリーズは、この時点でモデルサイクルとしては、末期で、次期モデルの開発も進んでおり、近い将来フルモデル・チェンジする筈だった・・・。また、ラリーは、グループBタイトルによって争われており市販車とは、一線を画す存在といえるホモロゲートモデルが、台頭していた。もちろん、ランチャも、"デルタS4"というエヴォリューションモデルで、WRCに参戦していたが、同じなのは、名前だけ、中身は全く別物(ミッドシップ4WD、ターボ+スーパーチャージャー)だった。
更に'87年以降はより、チューンの度合いの高いグループSレギュレーションに、タイトルをかける事が 決まっておりWRC に参戦する各メーカーもすでに車両の開発を進めていた・・・。
もちろんランチャ(そして親会社フィアット・グループ)も例外ではなく。

 

だが、'86年のシーズン半ば、急遽発表された、FISAによる突然のWRCレギュレーション規定変更が、そのスケジュールを(色々な意味で)狂わせた。 前述のようにWRCは、当初'87年以降グループSレギュレーションに、タイトルをかける予定だった。しかし、同年グループBによる重大事故が相次いで発生するに至り、同年5月、ある死亡事故がおきたことにより、事態を重く見たFISAはグループSはもとより、グループBもあまりに危険と判断し、'86年で終了。'87年以降はチューンの低いグループAに、タイトルをかけるという決定を下した。WRC に参戦する各メーカーは突然のFISAの決定に反論を訴えるが、FISAとしても,譲歩する余地は無かった。グループBマシーンは極限まで進化しすぎたがゆえに時としてドライバーにさえ,牙を向ける諸刃の剣と化してしまった。それ以上パワーのあるグループSマシーンによるラリーは野獣を世に放つような物。それはあまりにも危険すぎる。そう判断したのだ。
その為、WRCに参戦する各メーカーは、早急にグループAの、規定生産台数(年間に連続して5,000台)を満たす車両の中から次期主力車種の車両選定、ないし車種追加を余儀なくされる・・・。
そんな中、HF4WDの登場は、実にタイミングが良かった。とはいえ、ランチャとしても素直に喜ぶ訳にはいかなかったのではなかろうか・・・。
なぜなら、前述の死亡事故とは、'86年5月1日ツール・ド・コルスにおいて、"デルタS4"を駆るエースドライバー、ヘンリ・トイボネンが、コースを飛び出し、コ・ドライバーの、セルジオ・クレストと、共に死亡する事故であったのだから・・・
時にWRCは、4WD全盛の時代。他のエントラントメーカーが、既存の車種で、参戦を余儀なくされ、また車両の開発に手間取っているのを、尻目に、デルタ・ターボ4X4から熟成させた、HF4WDは、抜群の速さを見せ付け'87年モンテカルロのデビューウインを皮切りに快進撃を続け、メイクス/ドライバーのWタイトルを、獲得する。
この活躍によって、デルタ・シリーズの、販売台数は再び上昇、その為、フィアット・グループは、デルタのフルモデル・チェンジを延期し、現行のまま継続販売、そして、イメージ・アップとなったWRCへの翌年以降も、継続参戦を決定、その為、現場の要望にこたえる形での進化モデルの開発がスタートした。
そして、'88年・・・。
ランチャ・デルタに新たなストーリーが記されることとなる。
そう・・・"Integrare"という名の・・・。

 

Delta゛Integrare゛STORY

 

Integrare8V
"Integrare"=イタリア語で総合した、無欠の、完全の、といった意味をもつこの言葉。
'87年、本来、さらに発展させたグループSで、争われるはずだったWRCタイトルが、グループB車両による事故が相次いだが為に、グループAに移行したことにより、急遽ワークスカーに選ばれWタイトルを勝ち得たHF4WD。
この活躍によりモデル末期にも関わらず販売台数が上昇したことに気をよくしたフィアット・グループが、翌'88年シーズン用にランチャに、開発させた車こそ、このデルタ・ストーリーに書き加えられた予想外のストーリー
"Integrare"の始まりだった。
'87年シーズンチャンピオンを勝ち得たHF4WD。確かに82年9月に発表されたエクスぺリメンタル・モデル"デルタ・ターボ・4X4に端を発し、開発期間を十分にとって、また”デルタS4”のデータをフィードバックして市販に移されたが故に素性は良かったとは言え、そもそも、開発段階でWRC参戦を考慮していたわけではなく、またグループAの規定上、市販バージョンにレギュレーション上必要最小限のチューンを施したに過ぎなかった。そのため、ポテンシャルをフルに発揮できたとは言い難かった。
そもそも、シーズンチャンピオンを勝ち得たのも、突然のレギュレーション変更がなされた際、ランチャ以外戦闘力のある持ち駒がなかったが故の、幸運に恵まれた要素も大きかった事は、紛れもない事実なのだから・・・。もっとも、だからといって、HF4WDの素性が悪かったというつもりはないが・・・。
そのため、翌シーズン他のメーカーが送り出すであろうニューモデルに対して(今のままで)絶対にチャンピオンを死守できるという確証はなにひとつなかった。なぜなら、雪辱を晴らす為必死になってニューモデルを開発、テストしていたであろうことは、容易に想像がついたからだ。
なにより、Gr.Aにおいて必要最小限のチューンしか(レギュレーション上)施せない。裏をかえせば、実戦において必要なチューンを施した車両を市販バージョンとして(規定台数を)販売すればいい。
こうしてつくられたGr.Aホモロゲート・バージョンが、 ”HF Integrale”であった。
インテグラーレはHF4WDの実戦データで得られた問題点を重点的に、改良が加えられた。特に手を加えたのはエクステリアで、ここは、Gr,A規定において純正部品以外一切変更が、認められない為、講じられた措置で、HF4WDで問題となった熱問題とタイヤサイズの対策に充てられた。
狭いエンジン・ルームに押し込まれ極限まで連続で高速回転するチューンドエンジンを効率よく冷却するため、バンパーはおろかヘッドライトまわりまで冷却孔を開けられたフロント廻り、235サイズまでのタイヤをクリアする為つけられたブリスター・フェンダーが、後から付けられたにも関わらず、オリジナルを崩すことなく迫力ある独特のスタイルを醸し出しているのが、流石イタリア車。
サスペンションは、タイヤ・ホイールのサイズ・アップ(195/55、6.5J/15VR規格)、トレッド拡大、ディスク・ローターの大径化、及びダンパー/スプリングのハードセッティングが施され、エンジンはHF4WDのオーバーブースト機構を廃止しブーストアップ(0.8/0.9barから1.0bar)された以外は手を加えられないものの20bhp,2kg-mアップの185bhp/5300r.p.m、31.0kg-/3500r.p.mを発揮する。なおこのユニットは、後述する16Vや、エボルツィオーネI の登場後も、排出ガス規制の厳しい国向けに継続して搭載されている。(但しなぜか、一番排出ガス規制の厳しいはずの日本仕様を除いて。三元触媒最初からついてたのだろうか?日本向けは・・・。)

 

Integrare16V

 

'88年ホモロゲーションの降りたWRC第3戦にてデビュー・ウインをはたし、勝ち続けるデルタ・インテグラーレだったが、他のメーカーから、続々と、送り出されるライバル達に勝ち続ける為に進化することを怠らず、'89年遂にエンジン本体にも、改良の手がくわえられる。シリンダー・ヘッドの4バルブ化だ。
これは日本のメーカーが、エンジンのマルチ・バルブ化を推し進めたことにより欧州の各メーカーもその時流にのって開発をすすめていた。
すでに131アバルトにおいて4バルブ・ヘッドは用いられてはいたものの元々Gr.B用に設計・開発されたそのヘッドは設計も古く、生産性を考慮していない。
いずれにしても、フィアット・グループも、軽量、コンパクト、かつ生産性に富む4バルブ・ヘッドを新たに開発する必要があった。既存車種や、開発中のニューモデルのラインアップの増強を図るためにも・・・。
そして完成した量産用16バルブは、マイナーチェンジを受けたランチャ・テーマを皮切りに、順次搭載されフィアットグループはツインカム・ユニットの16バルブ化を推し進める。
勿論、過激なパワー競争の渦中にあるWRCにおいてインテグラーレに搭載する必要があった為なのは言うまでも無く・・・(1台あたりのコストダウンと品質の安定化もある)
この16バルブユニットは、テーマ用のものをベースとするが、基本設計は'60年代に設計された"フィアット・ツインカム"に溯る。WRCにおいてもフィアット124アバルトを手始めに131アバルト、ランチャ037ラリー、デルタS4/HF4WD/インテグラーレと順次改良を施され、ラリーフィールドにおいてトップクラスに君臨し続けてきたユニットであり、今回の改良も(市販モデルラインナップ増強とマスプロ生産が前提とはいえ)その為といっても過言ではない。
この2リッター・ブロックに、新設計の16バルブヘッドを組み合わせ液体ナトリウム封入排気バルブを組み込み、吸排気マニホールドも変更、インジェクタ、スロットルボディ、インタークーラー容量アップ、小型化されたターボユニットは電子制御ウェスト・ゲートを追加、最大トルクこそそのまま(発生回転数は3000r.p.mになった)ながら、最高出力は200b,h、pにアップ。
この16バルブ・ユニットを搭載する為にボンネットは、パワーバルジが設けられた。当然、足回りも手を加えられサスアーム変更、スプリングの強化および、短縮、スタビライザーの強化、ダンパーのリセッティング、タイヤの偏平化(205/50VR15)クラッチの油圧化と、全面的に改良され、4WDトルク配分も43:57と、リヤよりとなった。これは,16バルブ化で、更にフロント・ヘビーになり、アンダーステアが強くなった為講じられた措置である。
また、ロード・ユースも考慮して、バンプ・ラバーも改良、ABSもオプション設定され、'91年まで生産、販売された。

 

ganma91−Evoiuzione

 

'91年WRCは、 日本車が、台頭してきたシーズンとなってきた。 トヨタ・セリカが、デルタと、対等の速さをみせつけ、三菱や、スバルも頭角をあらわしてきたからだ。実力を付けてきた日本から来るライバル達に対し、アドバンテージが無くなってきていることから、デルタに大幅な、改良を加える時が来た。
その一方、ランチャ自身の、92年以降のラリー活動は、プライベーターチームのジョリー・クラブへと委ねられたが、実際には、ワークスの時と同じ体制で、活動していた。なぜなら、車両開発は、従来同様、アバルトが担当していたからで、彼らの手によって戦闘力のアップしたデルタが、91年秋、登場する。それが、エボルツィオーネである。(もっともこのネーミングは日本でのもので、本国での正式名称は、HFIntegrale gamma91となる。)
エボルツィオーネの進化は多岐に渡り、ボディは、モノコックの骨格にまで手がはいり、リアCピラーに補強を施し(ハッチバックの弱点のリヤのねじり剛性不足の強化)、ブリスターフェンダーの大型化及び一体化(16Vまでは、別体部品だったが、ここにきて一体プレスとなった。)そして、空力面を考慮した、可変式ルーフ・スポイラーの追加、フロント・ストラットバーの追加、そして、熱対策の為の、エア・インテーク、アウトレットの追加で、フロント・バンパー形状の変更はもとより、ヘッド・ライトユニットさえも小型化、開いたスペースを、開口するという荒業まで駆使して、面積を、増やしている。(ただし日本仕様は、ヘッドライトの保安基準に不適合となる為、従来の16V仕様のまま)
サスペンションもほとんど設計し直され、スプリング、ダンパー、スタビライザーは、新設計、フロント・ロアアームは、ボックス断面、ブッシュ、ストラット、アップライト、スプリングも強化、ブレーキも、当然強化、ローター容量を、前後ともアップ、特にフロントには、ガーリング製対向2ピストンキャリパーが、与えられ、また、ステアリング、ギアボックスも大型化、さらに、パワステオイルを冷却する為のオイル・クーラーまで装備。ホイールデザインも一新(スピードライン製)、5穴止めで、7.5Jにサイズアップ。 エンジンは、マフラーの変更を含むリセッティングにより、10bhpアップの210bhpとなった。

 

Evoluzione 2

 

'92年末、ランチャは、WRCでの活動を、終了、そして、翌93年、デルタ・シリーズは、14年ぶりに、モデル・チェンジされた。その新しいデルタのラインアップにはインテグラーレはなかった。

 

だが、デルタ・インテグラーレ・ストーリーは、これで、終わった訳ではなかった。
ランチャは熱狂的なファンのために、感謝を込める意味で、ロード・ゴーイングモデルとして更に進化させた'93年モデルをリリースした。それがエヴォ2である。16インチ・ホイール、45偏平タイヤの採用が目につくが、ボディ・シャーシは、細かい変更のみ。目玉となる変更は、エンジンにある。エンジン制御システムウェーバー・マレッリIAWをシーケンシャル制御の最新型に移行、点火デバイスもディストリビュータレスのダイレクトイグニッションとなり5bhp。1Kg-mアップの215bhp、32kg-mとなった。と共に、三元触媒を、すべての車両に搭載することによって、全世界共通仕様となり8バルブ仕様は、生産を終了。エヴォIでオプションだったABSとエアコンは、標準装備となった。また、内装は従来型と同じレカロ社製ながらSRタイプの物に改められている。

 

WRCにおいて、ピンチ・ヒッターとしてラリー・フィールドに駆り出されたデルタは、ラリーフィールドにおいて、輝かしい成績を残し、そして、このエヴォ2によって、スポーツカーとしての極みに達した。また、ファンへの感謝の意をこめ、このモデルをベースとした幾つかのスペシャルバージョンがリリースされた事も追記しておきます。

 

そして、95年春、最終ロットの限定車、"ディーラーズエディション"そして、熱狂的な日本のファンの為に、"コレッツィオーネ"をそれぞれリリースし、ロットアップと共にデルタ・インテグラーレ・ストーリーは、静かに幕を降ろした・・・。

 

インテグラーレという名を遺して。この名は、デルタ以降ランチャの4WDモデルの名称として、新たなストーリーを刻み続けている・・・。 現在にいたるまで・・・。

 

参考資料 (株式会社)ネコ・パブリッシング刊 カー・マガジン1994年12月号、特集"ランチャ・デルタ・インテグラーレ"より、また、同社刊、アイ・ラブ・インテグラーレにこの特集記事が、転載されています。
(掲載日2004年4月21日 文章作成日2002年3月)
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