NISSAN CEFIRO 1988-1994 (A31)

Sports Cruising -スポーツ・クルージング(前期型)(E-CA31) New 

Townride N -タウンライドN(中期型)(E-A31) New 

HISTORY

1988年の夏、日産はあるCMを発表した。

ニューミュージック界の重鎮である井上陽水氏をフューチャーしたそのCMは車の映像は明かされず氏が挨拶の次にたった一言言及し、その後で発売日と車名をナレーションする・・・たったそれだけの簡潔なCM。

その言葉は『今度の車、キーワードはくうねるあそぶ、らしいですよ。』

日産が得意としていたディザーキャンペーン、すなわち車の公表そのものを直前まで伏せた上で事前に新型車を発表するという一種のプロモーションだった。

そしてCMでの予告どおりにその車、セフィーロは同年9月1日にデビュー。

「33歳のセダン」というサブキャッチコピーを掲げて登場したその車はヤングアダルト、すなわちミドルクラスをメインターゲットにすえた2リッター5ナンバークラスのミドルセダンとして当時爆発的な人気を博していたトヨタのマークII3兄弟への対抗馬の一台として同年12月にモデルチェンジするローレルや翌年5月にモデルチェンジするスカイラインを持たない販売店向けに展開された兄弟車で主要コンポーネンツは先の2車と、そして事実上モデルチェンジ後のローレルとプラットフォームを共用する。(スカイラインはこの時点でホイールベースを短縮し4輪マルチリンクサスを用いる専用設計のプラットフォーム)

管理人注記:更新直後の文において先にモデルチェンジしていたローレル、と書きましたが正確にはモデルチェンジはこのあとであり、その部分修正いたしました。ご閲覧の皆様にはお詫び申し上げます(2010年11月4日)

そのため、RB20型6気筒エンジンにフロントストラット/リアマルチリンクという基本構成はローレルと変わりなく、逆にキャラクター的な位置づけから同車に存在する廉価モデル用CA18型やディーゼルのRB28Dは設定されない。

また、完全にマークIIシリーズをライバルにしたというよりもむしろそれらの客層の好みとは全く異なる展開とキャラクターの位置づけもさることながら車種展開も一種独特で通常ではエンジンラインナップやサスペンション形式とグレード構成、ならびにそれに準じた装備とは関連性を持たせて車体価格にヒエラルキーを持たせているのに対してこの車はその関連性を全く廃しライバル車種ではオプションになる装備を極力標準化することで少なくしグレード差を持たせず、グレード名は『セフィーロ・コーディネーション』の名の下エンジンとステアシステム/サスペンション(厳密に言えばそれに付随するデバイス)の選択によってわけられて、また、それに付随する形でインテリアコーディネーションにも選択肢を持たせてオーナーがチョイスするセミオーダーシステムを展開、既存の販売体制に縛られない個性を重視する販売体制をとられた。

このシステムは3種類のエンジンとサスペンションにATとMTのトランスミッション、そしてインテリアは3種類のシート生地の中から2種類のカラーに9色のボディカラー、そして好みのメーカーおよびディーラーオプションを選び自分だけの1台を作り上げるシステムで、グレードによってエンジンやサスペンションが決まるのでなく、逆にそれらの選択によってグレード名が決められるという例を見ないものだった。

グレード名はシングルカムノンターボの『RB20E』型を搭載する『タウンライド』、ツインカムノンターボの『RB20DE』型を搭載する『ツーリング』そしてツインカム・ターボの『RB20DET』型を搭載する『クルージング』の3種のエンジンに、標準サスペンションと機械式回転数感応型パワステを装備する標準モデル(名称はなし)のほかに超音波によってショックアブソーバー減衰力をリアルタイム制御するスーパーソニックサスペンションと電子制御パワステを総合制御する『DUET-SS』を搭載する『コンフォート』とパワーステアリングの油圧システムと連動して後輪を操舵させ走行安定性を高める新型サスペンションにあわせ進化された『HICAS-II』を搭載し、専用スポークアルミホイールを装備する『クルージング』を組み合わせ、そしてサスペンション形式、エンジン形式にちなんだ呼称がグレード名称、すなわち標準サスペンションにターボエンジンでは『クルージング』、HICAS-IIにシングルカムの場合『スポーツ・タウンライド』ということになり、これは

『グレードの概念を排除し、セフィーロを選びその中からテイストにあわせ自分だけ乗せフィーロを作り上げる考え方(セフィーロ・コーディネイト)から出発しました』(カタログから抜粋)

という考え方によるもので、そのためグレード名やエンジン仕様を誇示するエンブレムは一切装着せず、それらを識別できるのはセンターコンソールに貼り付けられたスペックIDラベルのみ。このことからも他の車とは一線を画していることがうなづけます。

そしてインテリアはホームスパン織物を使用した『DANDY』とカーパイル生地を使用した『ELEGANT』そしてモール系糸織物を使用した『MODERN』の3種類をブラックとブラウンの2種類のカラーバリエーションの中からチョイス、特に助手席は当時日産が展開していた『パートナーコンフォータブルシート』を装備。これは運転席とは異なり、リクライニング時にクッションを連動させる機能とシートバック(背もたれ)を中間で前に傾斜させてリラックスさせる構造で、単なるドライバーズカーでない事を暗示している。

また、エクステリアも一種独特でセンターピラーとドアサッシ一体のプレスドアを用いる4ドアセダンながらもむしろ4ドアクーペと形容したくなる程前後ウインドゥを傾斜させた流麗なフォルムにプロジェクター式のヘッドライトを用いた姿でシルビアの4ドアバージョンと言いたくなるスタイリッシュなスタイル。

まるで既存のセダンの固定概念を軽く受け流す、そんなイメージを漂わせていたと思うのは私だけでしょうか・・・。

もっとも、個性的、かつ衝撃的だったのは何も車だけではなく、それはCMにも言えることでした。

既に冒頭でCMキャラクターを井上陽水氏が勤めていたのは述べましたが、実車の発売後に流されたCMが話題になった。

それは走行しているセフィーロの真横に並んだカメラに対して助手席から『みなさんお元気ですかぁ〜』と挨拶するもので、(余談ながらロングバージョンではこの後『失礼しま〜す』といってそのまま車が前に進むシーンになる)これもまた今までの例に見ず、通常ではイメージキャラクターが運転するか停車している車に並ぶシーンがほとんどの車のCMの中で異彩を放つもの、しかも走行中の車内から挨拶なんて全く誰も思いつかなかっただけに新鮮に映っただけでなく、全くの私見ですが、助手席に乗っていることによって先に述べたように単なるドライバーズカーではないという印象を持たせること、すなわちパートナーコンフォートシートのセールスポイントを暗に示していたのでは、と思います。

もっとも、これにはきちんとした別の理由があって、当時井上陽水氏は車の運転免許を持っていなかったという理由からだったそうです。(事実歴代のCMでも運転しているシーンはありません)

『皆さん御元気ですかぁ〜』の挨拶も流行語にまでなり、順風満帆、に思えたもののCM公表から時がたたずに昭和天皇が体調を崩されたことにより、自粛ムードが広まり、急遽挨拶の音声のないバージョンに差し替えられることになった。

これはタイミング悪く新たにCMを作り差し変えるには、時間的な余裕が無かったことに起因する苦肉の策であったものの、このすばやい対応とそれによって話題性が増えたことでCMへ賞を受賞していると記憶しています。

どちらかといえばスポーツイメージを前面に押し出す正確ではなかったものの、スポーツ性を求めるユーザーに配慮してか日産の子会社であった「オーテック・ジャパン」よりコンプリートモデルであるオーテックバージョンが追加。
これはスポーツクルージングをベースにエンジン、サスペンションのチューニングと専用エアロパーツの装着、そして国産車では類を見ないコノリー社製のシートを装備した特別仕様で、受注生産車として販売。

またこれとは別にシート表皮に既にローレルに採用され好評を博した東レが開発した人工スェード素材『エクセーヌ』(実は『アルカンタラ』も全く同じ製品で海外市場での名称だったとのことだそうで)を用いたインテリアをオプション設定する『エクセーヌセレクション』も追加されている。

デビューから丸2年がたった1990年9月、最初のマイナーチェンジがされるのですが、この段階で井上陽水氏がイメージキャラクターを降板、また車自体も販売面において難点があった(納期に時間がかかることや在庫車の問題などから)『セフィーロ・コーディネイト』が廃止されサスペンションの選択をグレードごとに分ける手法からオプション扱いにすることによりグレード構成が簡略化され、エンジンによる選択のみとなった。(ただしツインカムターボのクルージングにのみHICAS-IIが標準)
それに伴いノンターボモデルにNモデルが登場、これはどちらかというと廉価グレードともいえるもので、この段階で標準となった電動パワーシートが手動式となりサスペンションも標準仕様しか選べず、最大の識別点は最大の特徴といえた4灯式プロジェクターヘッドランプではなく、2灯式角型ヘッドライトに改められたものでこれに限らず全般的に個性が薄められたマイナーチェンジだったように思えます。

とはいえ、5速AT(RB20DE搭載車)の新規設定やスカイラインに搭載された『ATTESA E-TS』を装備しフロントサスペンションもマルチリンク式になる『アテーサ・クルージング』の追加するなど商品力向上がなされたものの、マイナー前から下がりつつあった販売台数を向上させるには至らなかった・・・。

通常であればこれで次期モデルにスイッチするさらに2年後の1992年の6月、再度マイナーチェンジが行われ、兄弟車のローレル、スカイラインに遅れて2500ccエンジン搭載車をラインナップに加え前後バンパーを大型化することにより全車3ナンバー化、そして全車5速ATとなるのですが、販売台数の低下に歯止めがかからず・・・

そして1994年、2代目にバトンを渡す形になりましたが、実質受け継いだのは名前のみでマキシマとの統合により、全く新規に開発されたFFに変更、コンセプトも従来とは全く異にする純粋なファミリーカーに生まれ変わりましたがエアバッグを標準化し、広い室内と乗り心地のよさにより人気を博した事も記しておきます。

この車の歴史をたどるに連れ思ったことはいい車と売れる車は必ずしも一致しない、ということ・・・

コンセプトと思い切りの良さからこのクラスにおいて新たな客層を開拓できたのに、目先の販売台数に捕らわれて個性を消して普遍化していったことがこの車の最大の敗因だった・・・

そう思えてなりません。

(掲載日2010年10月31日、文章一部改定、修正2010年11月4日)

 

Showroom NISSANに戻ります