BMW-MI (TYPE E-26 1978−1981)

BMW-M1 (E-26) エッシー・グンゼ産業1/24改造 New

BMW-M1 (E-26) エッシー・グンゼ産業1/24再改造 New

History

1972年5月1日、BMW社はBMW Motorsport GmbH−モトールシュポルト社−を設立する。

その設立目的はBMW社のモータースポーツ業務全般、いわゆるワークスティームであると共に、プライベーターチームへの支援、その為のバックアップやパーツの供給、そしてレース出場車両の開発である。それまで社内で行っていたレース活動そのものが高度化かつ熾烈を極めるようになり、とても社内の一部門ですむ仕事で無くなったが故に、分離、子会社化したのであった。

代表者はヨッヘン・二ーアパッシュ氏。ポルシェのワークスドライバーを経て、ヨーロッパフォードのレース監督をしていた人物である。

コードナンバーE−26『M1』プロジェクトは氏の発案によって実行に移された。

きっかけはFIAがツーリングカーの世界選手権をグループ5にかける事を決定した事による。

それまで主力としていたマシーンは3.0CSL。だが、徹底した軽量化とターボによるパワーアップにもかかわらず、BMWはこのマシーンでタイトルを獲得する事が叶わなかった。

それはライバルとなるポルシェの存在。ポルシェはグループ4/5マシーンとして911を大幅に改造した934/935により快進撃を繰り返していた。

この車に対向するには既存の乗用車ベースではかなり辛い戦いとなる。

この車と渡り合い、勝利を物にするには、934/935よりも操縦性、運動性共に優れる車両を開発することが必要となる。その為の解答としては運動性能のすぐれたミッドシップレイアウトのマシーンを開発しFIAのホロモゲーション取得台数をロードバージョンとして販売、グループ4はもちろんの事、本命となるグループ5、すなわち世界選手権を勝利する事でBMW自社のイメージリーダーとしての役割も担わせる。それがこのプロジェクトの概要だった。

生産台数はグループ4車両公認規定台数である400台を12ヶ月以内に、そしてその後の10ヶ月でさらに400台の合計800台を生産、販売する、それが当初の計画予定であった。

だが、業務を開始したばかりのモトールシュポルト社には、この車を生産する能力はもとより、開発する能力も残念ながら無かった。今までは、既存の車両を元に製作していたものを全くのゼロから、しかも、プロトタイプで一度だけ手がけたミッドシップで(1972年のに同社ミュンヘン博物館開館にあわせて発表されたエクスペリメンタルモデル『BMWターボクーペ』がそれで、2リッターターボユニットを搭載)少量生産の、厳密に言えば、ロードカーに手直しされたレースカーを限定生産することなど、モトールシュポルト社はやったことが無く、BMW自社も既存の大量生産ラインとはまったく違い、その為のラインを設ける余裕も無かったのでしょう。手探り状態で行わなければならない。レースで勝つという至上命題を掲げることを考えるとこの計画はあまりにもリスキーすぎる。

その解答は用意されていた。それも、まったく意外な方法で・・・。
当時、操業停止状態であったランボルギーニ社に開発、生産業務を委託したのである。

開発の中心人物はジャンパオロ・ダラーラ博士。ミウラの開発の後、デ・トマソに移籍した氏であったが、同社の経営が創設者フェルッチオ・ランボルギーニ氏の手を離れ、新たにの経営者となったジョージ・ヘンリ・ロゼッティ氏により、再びランボルギーニのエンジニアリングアドバイザーとして迎えられた人物である。

ダラーラ氏はレースに出ることが前提の為、ミッドシップレイアウトとしては極めてコンベンショナルなエンジン・トランスミッション縦置き方式とし、エンジンを車体中央に、且つドライサンプ化によって低い位置に落とし込むように搭載する設計とした。レーシングカーのセオリー通りの設計である。

結果的にホイールベースが長くなる一方、室内スペースに制約を受ける事となる物の、ハンドリング、トラクション、ブレーキング性能など、操縦安定性という面では、この上ない設計である。またM1は6気筒エンジンの搭載が前提だった為、それに比例してホイールベースが長くなった物の、それにより、超高速域での直進安定性が向上、また懸念された操縦性の悪影響も、エンジンを極力車体中心に且つ低重心位置に搭載しているため、問題はないとの判断であった。

搭載されたエンジンはM88型直列6気筒DOHC4バルブユニット。モトールシュポルト社技術主任パウル・ロシュ技師の手により、3.0CSLに搭載されたレース用ユニットを手直しし、それまでのBMW製エンジンは必ずボンネット高さを低くする事と、重心をさげることを目的として30度傾けて搭載される事を前提として設計されていたエンジン本体を、ミッドシップ化の為に直立搭載に改められ、また、低重心化の為、潤滑方式もドライサンプ式とされた。そして、このユニットのヘッドカバーには『BMW Motorsports』の文字が鋳込まれた。なお、このユニットは後年、BMW本社より、E24初代6シリーズ用に搭載可能なよう設計変更が命じられ、S38/B35型として、M635CSi(後年、北米及び日本仕様はマイナーチェンジを機にM6に改名)並びにM5に搭載される事になる。

ここで興味深い話を一つ。

近年、ダラーラ氏の証言にて否定された事なのであるがこの車、開発時点ではBMWとしては初となるV12が搭載されるという噂があった。元々はライバルであるメルセデス・ベンツが4リッターV8エンジンを上級モデルへ搭載したことが北米市場でアドバンテージとなり、販売面で後塵を喫することになり、その対抗馬として開発していたトップレンジである7シリーズのトップグレード用に急ピッチで開発されていたユニットであった。カールハインツ・ランゲ技師の手によるユニットは、試作段階において圧倒的なパフォーマンスと静粛性を兼ね備えたユニットであったと言われるが、7シリーズの正式発表の目前に全世界を襲った石油ショックによる世論の圧力により、急遽V12生産計画は白紙となり、本来V12が載るべきはずの745iは3.2リッター直列6気筒ユニットにターボチャージャーをドッキングすることにより、(当時のターボ係数1.4をかけることで約4.5リッターとなる)リリースされる事となる。

M1のグループ5仕様はM88ユニットにツインターボを装着する事により850HPを発揮する予定だったが、(結果として、こちらも日の目を見ることが叶わなかったが)このV12が計画どうり市販化されて、且つM1プロジェクトがスムーズに進み、935との一騎打ちが過熱したならば、このV12ユニットを搭載したM1も登場したのでは、と思えてしまうのは私だけでしょうか・・・。

スタイリングはジョルジュ・ジウジアーロ氏率いるイタル・デザインの手による。この車のデザインに対し、BMW側はあるリクエストをしたと言われている。それは、前述の『BMWターボクーペ』のデザインテーマをモチーフに、当社製品として相応しいデザインに仕立てること、だったそうです。

BMWは1978年3月のジュネーブショーに正式発表と共にランボルギーニ工場にて生産を立ち上げ、週2台の生産ペースで12ヵ月以内に400台の生産を消化、ホロモゲーションを取得する計画であり、ランボルギーニでの開発も順調に進み、77年夏ごろ、公道テストする段階まで進んでいた。

だが、78年ジュネーブショーが開催された翌月4月、BMWはランボルギーニ社に対し、M1の生産に関する契約を破棄する旨を通達した。

生産計画が遅れたことが理由とのことですが、他にも、ランボルギーニとBMWの間で確執が有ったとも、BMWの子会社になる事を嫌ったランボルギーニが手を引いたとも、諸説はありますが、この直後、ランボルギーニ社は完全に倒産に追い込まれ、経営権がイタリア政府の管理下に置かれる事になったことを考えると最初の理由が信憑性が高いと思います。

しかし、BMW側としても、これ以上計画を遅らせるわけにも行かず、自社生産に切り替えるものの、BMW本社としても、この車の為に生産ラインを作るどころか、既存のラインに割り込ませるわけにも行かず、それ以前に通常のラインで作れる車でもなかったため、結局、モトールシュポルト社の業務となったのですが、当初、ランボルギーニ社のフレーム作成を担っていたイタリア・モデナのマルケージ社で製作予定であったメインフレームをBMWのコンバーチブルモデルの袈装を行っていたバウア社に委託し、イタルデザイン社で内外装パーツを組付け、モトールシュポルト社で駆動系統一式を組み込むと言う手間も時間もコストも掛かる工程を余儀なくされてしまった。

 その為、生産ペースは大幅に狂い、400台の年間生産台数をクリアする事が出来ず、(結果として81年まで、447台が生産されましたが)グループ4のホモロゲーションも、本来であれば取得すら不可能であったが、FIAが特例として400台目をラインオフした1980年の暮れに与えられた物の、結果として、1981年シーズンのみ有効(翌82年には新規則のグループB、Cに移行する事が決まっていた)となっており、また、グループ5も結果として2002に変わって市場に投入された3シリーズが投入されたことも有り、実質的にレースフィールドへの参加は無意味な物になってしまっていた。 

 もっとも、ルマンにはグループ4/5ではなく、IMSAクラスとして参戦が認められており、活躍していた事やM1によるワンメイクレースも開催されたので全くの無意味と言う訳でこそ無かったのですが・・・。
 

この車の歴史を辿るに連れ、同時期の所謂スーパーカーといわれるライバルに比べ、華がないという意見を(と言うより記事を、というのが正解かな)目にするに連れ、的外れな意見だな、としか思えなくなります。

何故かって?

運命のいたずらに翻弄され、結果として存在意義を失った物の、元々レース用のベース車として生を受けた車。

フェラーリやランボルギーニ、ポルシェのように、ステイタスやエンターテイメント性を求める事自体、ナンセンスな事。美しい塗装に彩られた流麗なボディラインも本皮の豪華な内装も、官能的なエグゾースト・ノートもレース用に改造するには結局無駄でしかないのだから。

ただ、一つだけいえることがあるとすれば、運命に翻弄され、そしてレースフィールドという本来の活躍をすることを許されなかったM1・・・

確かに歴史に『if』はありえない。しかし、運命の歯車が、別の意味でほんの少し狂っていたならば、この車、間違いなく栄光を掴み取る事が、そして、スポーツカーそのもののの有り方が、変わっていたのではないか・・・

そう感じるのは私だけでしょうか・・・。

 

参考文献

『福野礼一朗のスーパーカー型録』”スーパーカーの”正義”における悲劇”福野礼一郎氏レポート
カーマガジン1996年12月増刊号 ネコ・パブリッシング刊

『BMW M Series Mパワーの血統のすべて』”Mパワーの血統““E26M1”沢村慎太郎氏レポート
タツミムック インポートスポーツチューニング|BMWオンリーマガジン 辰巳出版刊

本文作成の際、以上の文を参考にさせて頂くと共にデータ等、引用させて頂きました。 


(文章掲載日2004年11月11日)

Frontへ戻ります Showroom"BMW"へ戻ります