SUBARU LEONE 1st(1971-1979 A2# A6#)

クーペ 1400 RX(A22 1971-1973)山田模型‐童友社/21改1/24

クーペ 1400 RX(A22 1971-1973)山田模型‐童友社/21改1/24 再改修

エステートバン 1400 4WD(A64 1971-1973)山田模型‐童友社/21改1/24 New

History

360の空前のメガヒットにより、プロトタイプモデル『スバル1500 P-1』で果たせなかった小型車市場に参入したスバル1000シリーズ。
元飛行機屋らしく、広い室内と高度なメカニズムを誇る名車ではあった反面、技術至上主義で開発されたが為、ライバルに対して、高めの値段設定だった事や、販売網が脆弱だったがゆえ、小型車市場では、低迷を喫していた。

 その危機的ともいえる状況を打破するために、開発されたのがレオーネだった。

スバル1000シリーズでは、理想主義的、且つ技術至上主義的な設計で、車体、特にキャビンのパッケージングを合理的に設計されており、『乗れば良さのわかる』玄人好みの車だった。
反面、メカニズムの構成上生産コストや、整備性という点では難点があり、また、スタイリングが地味な為、販売サイドからすると『売りにくい車』であったのも、否定できない事実であった。

これは私の私見ですが、もし、『P-1』が市販に移されていたら、同じ命運を辿っていたのではないだろうか・・・そして、『スバル360』は世に出ずに、軽自動車のみならず、日本のモータリゼーションの成熟はかなり遅れていたのでは、そう思えてきます。

その為、良さのわかる固定客がいたのも事実。それゆえにあえて完全な次期モデルとはせず、別車種として展開して、ラインナップを追加して、拡充が完了と共に、1000シリーズの販売を終了というスケジュールを取った。

モデルチェンジで車の持つキャラクターが違いすぎると、それまでのユーザーが拒絶反応を示す、ということを理解していたのでしょう。

その為、1971年10月に1000シリーズには無かったするクーペを先行発売させてスポーティイメージを継承させ、落ち着いたころを見計らい翌年2月に2ドアと4ドアのセダンとバンを追加して、同年半ば、1000シリーズ(この時点ではff-1 1100、1300G)の生産を終了して、世代交代を図った。
奇しくも89年、同じ方法でレガシィ/インプレッサに道を譲る形でレオーネもその歴史に幕を閉じるのだが・・・。

レオ-ネは、従来の1300を拡大した1400をメインとして、後に追加されたセダン/バン用の1100と2種類のエンジンを用意。
全車、(特に4ドアでは国産初)サッシュレスドアを用いられ、斬新さをかもし出す一方、サスペンションは極く一般的なストラット式となり、前ブレーキもインボード式(ブレーキがタイヤ側でなくデファレンシャル側に装備されている)から、通常のアウトボード式となった。

スバルの屋台骨をになうイメージリーダーカーという事から、当時人気絶頂だった歌手尾崎紀世彦氏を起用、専用のイメージソングを用いたCMにより、今までとは異なるイメージ戦略に打って出た。

もっとも、レオ−ネの場合はむしろ、こちらのモデルの方が印象が強いのではないでしょうか。

そう、4WDの事である。

1972年9月、世界で初の大量生産乗用4WDモデル、といっても、実質的には貨物車であるが、エステートバンに4WDが追加されたのである。

この車が登場するに至る経緯は1968年頃まで遡る。

東北電力が宮城スバルに冬期間の走破性に優れるライトバンベースの4輪駆動車を作れないか、と打診したことが始まりだった。
豪雪地帯であるかの地では、送電線の作業において、僻地での作業が必然となり当然除雪なんて出来ない区域での作業も必要になるものの、当時4輪駆動車といえば、ジープやランクルなどしかなく、荷物を積む問題や、年間を通じても使用するため、ランニングコストがかさむそれらの車両の購入に難色を示していた事による物で、1000バンをベースにFR車用デファレンシャルギア(ブルーバード510用)をリアアクスルに組み込みトランスミッションにトランスファを追加し、パートタイム4WDとした物で、詳しい経緯、昔のドライバー誌にその退役した1000バン改の車両のレポートが掲載されていてそちらに書いてあったのですがもう手元には無い為断定出来ませんが、この車に可能性を見出した富士重工本社側がその車のデータを元に、1970年に開発を初め、1971年東京モーターショウにて、1300G 4WDバンを出品、さらにレオ−ネの開発に伴い、完成に至った。
余談ながら、後輪駆動用の構成部品は市販モデルもブルーバード用のものを日産から供給を受けて使用している。

意外なことに、当初は5ナンバーのステーションワゴンしてリリースする予定だったものの、急遽4ナンバーのバンに変更、一車種のみ用意されていたのは、積雪地や山間地など、非舗装路でのワーキングユースをターゲットとしており、さほど需要が見込めると思わなかったためだった物の、次第に販売台数が上昇という予想外な事態になった。

その理由は、4WDと言う卓越した悪路走破性と、バンのスペースユーティリティの良さ、そして、他社のバンと異なり、4輪独立懸架サスペンションの乗り心地のよさから普段は乗用車として使えるマルチユース性に着目して、レジャー用としての購買層が現れたことに起因する。
皮肉なことに、ステーションワゴンとしての使い方をするユーザーの潜在需要にマッチしていたのである。
もっとも、当時はまだステーションワゴンの認知度が極端に低く、バンと混同されていたこともあり、ステーションワゴンは次世代のモデルの登場を待たなければならなかったのですが。

1975年1月には要望の多かったセダンにも設定、豪雪地帯や寒冷地をメインにこちらも好評となる一方、輸出先でも気軽に使える4WDとして高評価を受け、輸出専用ながら、ピックアップトラックのブラットを追加。
ユニークなキャラクターで人気を得るが日本では残念ながら設定されなかった。

結果として4WDは他のモデルにないレオーネのアドバンテージとなり、最終的に全生産台数の30%を占めるにいたり、乗用4WD市場を開拓するに至った。

勿論、4WDだけがレオ−ネの全てではない。
この4WDバンに遅れる事4ヵ月後、クーペモデルにRXが追加された。
『Rally X』の称号たるこのモデルはGSRをベースとして、ハードサスペンションなどより実戦的な装備を追加、と共に、豪華装備を省いた競技用ベースモデルで、5速クロスミッションと国産車としては2番目に4輪ディスクブレーキを装備したモデルで、後のレガシィRSやインプレッサWRXの礎を気付いたといっても過言ではない。
もっとも、専用にハイパワーエンジンを用意することこそ叶わなかったが・・・。

そして、翌1973年、ハードトップが追加される。これは当時の流行だったボディ形状で、既にクーペがあったものの、こちらのスポーティ路線に対してラグジュアリー路線を狙ったという感じで、これまでのモデルに無い4灯式ヘッドライトを装備してたことからも伺える。

そして、この時代の暗雲といえる排気ガス規制が掛かるのだが、富士重工は、独自の技術で他のメーカーのように触媒や追加装備を使わずに順次強化される規制を次々にパス。技術力の高さを見せつけた。もっとも、これはオールアルミボクサーエンジンだったからこそ可能だったのだが。(アルミは冷却性に優れ、窒素廃棄物の生成が少ない事に加えてエンジンの構造上負圧脈動により、排ガス浄化の為の2次空気を吸い込める為)

この排気ガス規制により、排気量が引き上げられ、マイナーチェンジを繰り返し、特に昭和53年規制の適合と共に、行なわれた変更はフルモデルチェンジに近いボディ自体の改修を行なった。
このとき、輸出仕様の5マイルバンパーとアルミホイール、専用のシート生地を採用したグランダムシリーズをセダン、ハードトップに追加。
またクーペRXにもこのバンパーを装着したことによりRX/Aと名称変更されている。

たゆまぬ努力で商品力を上げていったがこのクラス、国内ではカローラとサニーの激戦が繰り返されていた為、メーカー側が狙ったほどの成績を挙げることが出来ず、苦戦を強いられることになり、その後2度にわたるモデルチェンジでも、その境遇は変わらなかった・・・。
だが、海外ではボクサーエンジンによるシンメトリカルレイアウトFFシャーシによる卓越した高速安定性の高さと絶妙なシャーシセッティングから、高い評価を受けている。国内で評価されなかったのはひとえに日本では常用速度域が海外に比べ、低かった為に過ぎない。(当時高速走行性はさほど重要な評価でなかったのではというのが私見)

当時の販売成績としては決して成功といえなかったレオーネ。
ですが、4WD、ステーションワゴン、ラリースペシャルモデル、後にプレミアムメーカーとして、確固たる地位を築くことになるスバルの方向性を示唆したモデルとして、このモデルは欠かすことの出来ない、偉大なる先駆者だった。そう思えるのではないでしょうか。

(2004年7月4日掲載、2007年9月1日文章加筆修正)

参考文献
八重洲出版著オールドタイマー1998年4月号掲載 沼田 亨氏、浦栃 重雄氏レポート

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