NissanSkylineC110"Ken−Mery"(1972−1977)

・2000GT-X Hard ・TOP(1972−1975 KGC110) アオシマ1/24改造

1600Sporty・DX Hard・top(1972−1975 KC110)アオシマ1/24改造

・2000GT Sedan(1972−1975 GC110)アオシマ1/24改造

・1600Sporty・GL Sedan 1972−1975 C110)アオシマ1/24改造

・1800Sporty・GL Wagon (1972−1975 WPC110)アオシマ1/24改造

・2000GT-R Hard・top(1973 KPGC110)アオシマ1/24改造  製作中に付き準備中

2000GTX-E・Stype Hard・top(1975 A-KGC110 1976-1977 C-GC111)アオシマ1/24改造

2000GT Sedan (1975 A-GC110 1976−1977 C-GC111)アオシマ1/24改造 (準備中)

History

 4代目スカイライン”C110型”が登場したのは、1972年9月。先にモデル・チェンジしていたローレル”C130型”と主要コンポーネンツを共用し、GT系6気筒と4気筒のセダン、ハードトップ、4気筒のバン/ワゴンの5種類のボディに、GT系6気筒”L20型”と、4気筒”G16型”と”G18型”3種類のエンジン、5速(GT系のみ)、4速のマニュアルと3速オートマチックの3種類のトランスミッションが用意された。

人気車種らしい、‘70年代前半のトレンドを巧みに取り入れた流行のスタイルと、先代”C10型”通称ハコスカのキャッチ・コピー”愛のスカイライン”を、引き継いだ”ケンとメリーのスカイライン”の広告キャンペーンにより、爆発的な人気を博しまた、CMソングや、Tシャツなどのノベルティ・グッズも、大ヒットした。今となっては、CMソングがヒットするのは、当たり前だし、また、車のノベルティ・グッズもめずらしくないが、当時としては、かなり異端的な事だった。なにより流行りのTシャツを買いに車の販売店に行くなんていまでは信じられないかも・・・ねえ。でも、このTシャツ、31万枚もの販売記録を達成してるんです。いや、マジで・・・。

 しかし、一般には受け入れられたものの、熱狂的なスカイライン党の反応は、冷ややかだった。なぜなら、コンセプトそのものが、まるっきり変わっていたからだ。分かりやすくいえば、2ドア・モデルのなかったデビュー当初の7thや、R33、そして、現行型V35と、おなじような状況だったからだ。 レースに勝つ為に、メーカー自らが大改造して、参戦、ポルシェに挑みスカG神話をうみだした、S54、レーシング・メカニズムだったDOHCユニットを搭載、連戦連勝し続けたハコスカGT-R、それまでのスカイラインは、純粋にレースの世界に身を投じ、そして、勝利するためのストイシズムな車だった。 だが、ケンメリには、それがない。スペシャリティ路線に流されてしまった。少なくとも彼らはそう思っていた。

なぜなら、本来イメージ・リーダーであるはずのGT―Rが、ラインアップに、なかったからだ。 だからこそ、皆、GT-Rの登場を心待ちしていた・・・。サーキットで再び王者に返り咲くために。

そして、東京モーターショウにおいて、期待に応えるべく、日産ブースに、一台の、ダーク・ブルーの、レーシング・カーが、展示された。“スカイラインGTレーシング”と名乗るその車こそ、次期GT-Rに違いない。そして、市販バージョンが現れ、そしてサーキットにおいて、GT-Rに後塵を浴びせたサバンナRX-3から再び王座を奪い取る。この車を見た人は、誰もがそれを夢見た。

そして、翌‘73年1月。GT-Rは復活した.  先代から引き継がれたS20エンジンには燃料蒸発防止装置がとりつけられ、足回りは、固められ、リヤにはスタビライザーと、4輪ディスクブレーキ、175HR14ラジアルタイヤ、専用バケットシート、240Km/h、10000rpmスケールメーター、そして、ブラックアウトされたフロントグリルと前後オーバー・フェンダーとリヤスポイラー、と先代以上に迫力ある姿で復活したGT-Rだったが、サーキットに現れることはなかった。 そして、わずか4ヶ月で、消滅した。いや、深い眠りについたというべきか・・・。

様々な謎をのこして・・・。 (日産の公式発表によると、総生産台数は、197台。うち2台はレース用車両となっているが、実際にレース用としてつくられたのは、先述の展示車両しか明らかにされておらず(車体No000013)もう一台は、その存在すら不明であること。また、市販車は、車体No000050にはじまり、000245で終わるのだが、000011、000012、000023の3台が確認されており、000012は、登録され一般ユーザーにわたっており、また、未確認ながら、他にも、1台、50番以前の車体Noの車があるという。)

また、一説には、S20型の在庫整理のために市販されたとも言われているが私はそれを信じない。もっともこれは私の希望的な憶測にしかならないが、もともとレース参戦の為のホモロゲート取得の為の台数をクリアする事が前提で、大量に売ることを前提としておらず、当時の技術では、生産性や、採算をある程度度外視していた設計のエンジンだった事や、それまでの販売台数の面からみても、先代GT−Rは、月に平均50台から60台売れていた計算になりそれにZ432もあわせても、多くても月に100基も生産できなかったのではないかと思うし、それを考えると200基(あるいはそれ以上)も作り置きしていたとも到底思えない。そもそもエンジンの在庫整理のためだけに市販するのなら、むしろKPGC10型や、Z432を継続生産したほうが、手っ取り早いはず。なにより、専用のパーツを造ることや、ボディの加工などによる生産コストの面、また当時、スポーツカー=暴走族といった風潮であった運輸省への認証の手続きの手間をみても、とても採算があうとは思えない。もっとも、日産自動車の公式なコメントが無い以上、この私の文章も、所詮、書き手の憶測に過ぎないのだが・・・。

 一時的にとはいえケンメリにあえてGT-Rをラインナップを加えたのは必然の事だったのではないか・・・。なぜなら日産も、そして、桜井真一郎氏率いる開発スタッフもスカイラインのもつ、スポーツ・マインドを忘れてしまったわけではない。今まで応援してくれた硬派なスカイラインファンにそれを伝えたいがために、あえて登場させたのではないか。 何より、このことについて、日産自動車を非難するのは、あまりにも酷な状況だった・・・。

ケンメリが、開発時において公布され、そして、施行が迫っていた排出ガス規制、そして、登場した直後において、起こったオイル・ショック。はびこっていた暴走族、そして、深刻になっていた自動車による死亡事故。そのため、自動車の存在に対する、世論の眼は、冷たくなり、各メーカーも、レースから撤退、あるいは、その規模を、縮小せざるをえなかった。 これらの自動車をとりまく逆風が、いかなスカイラインといえどもレースに出ることも、そして、GT-Rの存在をも、許さなかったのではないか。  

 ひとつだけ、いえることがあるとすれば、当時の状況は、これからは、今までのイメージや、リザルトが、これからの販売成績に結びつくとは限らない。むしろ、世論が、先導した”自動車=悪”という図式、そして、そのやり玉にあげられたスカイラインにとって、それを崩す為に、自動車の持つ魅力、ゆとりをもって運転することの喜び、ドライブすることの嬉しさ、しいては、純粋な、車の楽しさを、アピールする必要があった。レースに出て、勝つことだけが車の魅力ではない。 

 ほんとうの車の魅力とは何なのか・・・それがケンとメリーのスカイライン”というキャッチ・コピーに現れていたのではないか。

勿論、自動車が、ひきおこした問題にも真っ向から対峙しており、‘75年9月、マイナーチェンジがほどこされ、段階的に施行された排出ガス規制(昭和50年規制)に対応するためにエンジンの改良が加えられた。まず、最上級グレードであるGTーXが、SUツイン・キャブレターから、当時台頭し始めていた電子制御燃料噴射システム”ニッサンEGI”に、変更、グレードもGTX-Eとなって、先行発売され。そして、翌月10月残る全車種、つまりシングル・キャブのGT、同Lタイプ及び4気筒車(この時点でエンジンは、プリンス系G型から、ニッサン系L型に変更)も昭和50年規制適合となり、日産は、これらの排出ガス浄化システムを“NAPS”(ニッサン・アンチ・ポリューションシステム)と、呼称し、そのエンブレムを、リヤに貼り存在をアピールしていた。(この時点での、形式は、A−C110系)

そして、この時に、大幅な車種整理と再編成がなされ、5ドアワゴンが5ドアバンのGLと入れ替わりで消滅、最廉価グレードの、4ドアと5ドアバンのスタンダードと、2ドアデラックスおよび、1600のコラムシフト車と、AT車が、カタログ落ちとなり、GTX-Eに”Sタイプ”が追加された。GTX-Eをベースに、サスペンションを、GT-Rと同等のセッティングを施し(強化されたフロントスプリング/ショック・アブソーバー、に変更。リヤ・スタビライザーの追加、とリヤ・ブレーキのディスク化。但し、LSDは未設定、ステアリング・ギア比も、GTX-Eと同じとなる)、185/70HR14ラジアル・タイヤを標準(当時は、バイアスタイヤが主流)、専用のシート(但しGT-R用とは異なるリクライニング式)と、革巻きステアリング、アルミ地のメーターパネル、リヤ・ワイパーが追加されたスポーティバージョンで、純粋に走ることを楽しむための車というキャラクターが与えられた為、ベースとなったGTX-Eに標準のパワー・ウインドゥが省かれ、またパワーステアリングもオプション・リストから削られた。
この車は、GT-R亡き後追加されたスポーツ・グレードではあり、ある意味では、代役といえるのだが、純粋な後継モデルではなかった。なぜなら、方向性が異なるからだ。もっとも当時の状況を考えればそれも止むを得なかったのだが、エンジン自体はL20Eのままで特に手を加えられず、セダン/ハードトップ両方に用意され、また、エアコンやATも、選択できた。そして、何より、このグレードに、”赤バッチ”は与えられてはいない。
ほとんどの雑誌で、”赤バッチ”が与えられたと書いてあるが,実際につけられたバッチの色は、緑がかった青であり、(GTの青より明るい色)、”赤バッチ”が与えられるのは次期モデルの”C210系ジャパンに用意された、”Sタイプ”のあとを次いでXグレードから独立したGT-ESからであり、以後SグレードにGT-R復活後も、”赤バッチ”が与えられている。

 翌‘76年、全車段階的に(3月に1600,5月に1800、そしてGTが6月)昭和51年排出ガス規制適合を期に、形式名はC-C111型に移行(ハードトップとセダンが共通形式となりハードトップの"K"が外されます)、そして、同年9月、スカイライン生誕20周年を記念して、全国のプリンス店(現在は、レッド・ステージ)において、記念セレモニーが行われ、20周年記念限定車”ゴールド・カー”が、登場、400台が、抽選販売された。この車は、GTX-Eに専用のボディ・カラー(カッパーゴールド)と、内装色(ワイン・レッド)が、与えられ、オプション装備のアルミホイールとフォグランプが装備され、記念バッチが付けられているのが特徴である。

 そして、GT、GT・LタイプにもEGI搭載車や(GT-E、GT-E・Lタイプ)GT系、GLにエクストラを追加し‘77年8月C210型”ジャパン”にモデル・チェンジされた・・・。

 最後にひとつだけ・・・これまでのスカイラインは、レース・フィールドにおいて、様々なライバルと鎬をけずって、戦い続け、そして、勝利してきた。だが、ケンメリは、レースに撃ってでることはなかった・・・。 

 硬派なスカイライン・ファンは、それがなにより許せなかったに違いない。

だが、ちょっと待ってほしい。そして、考えてほしい。なぜ、レースに出なかったのか・・・。

当時の社会背景を考えれば、答えは、自ずと見えてくる。 新しいGT−Rが、レースに出ることが許されなかったということに・・・。

そしてケンメリも、闘いつづけて、圧倒的な勝利を勝ち得た。レースとは全く違うフィールドで・・・。

そう、この時代のスカイラインの本当の敵は、自動車の存在を否定した、世論だった。そして、それに反発する人たちがたくさんいた。だからこそ、あれだけの、爆発的な人気を勝ち得たのではないか・・・。

そう思えてならない・・・


(文章作成日2001年8月、掲載日2004年4月10日)

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